はるかアルプス山脈を望む北イタリアの地に、ポー川という一本の川が流れています。
イタリアとフランスの国境付近、アルプス山脈の一端に源を発するその川は西から東へと流れ、全長652kmにも及ぶイタリア国内最長の川として知られています。
↑ ポー川の源流付近。
たくさんの支流を持つポー川の流れは、時に洪水を引き起こしながら周囲の土地を潤し、やがて日光のさんさんと降り注ぐ広大な緑の平原を作り上げました。
活火山を抱える比較的乾燥した気候を持つイタリアという国にありながら、この土地は古くから肥沃な大地として知られ、ヨーロッパ有数の農業地として数多くの産物を育んできたのです。
そんな場所こそが、本日の主役、パルミジャーノ・レッジャーノ・チーズのふるさと。
それどころか、あの名高いパルマハムやバルサミコ酢、また数々のワインも皆この土地の生まれです。
前回のコラム(→クリックで飛べます)では、現在Nadiaさんで開催中の企画(→クリックで飛べます)にからめつつ、「チーズ」全般についてお話をさせていただきました。
コラム9回目となる今回は、いよいよこのパルミジャーノ・レッジャーノだけに注目し、その秘密を解き明かしてみたいと思います。
パルミジャーノ・レッジャーノが、なぜ「イタリアチーズの王様」と呼ばれるようになったのか?
そこには単なる味や使い勝手の良さだけに留まらない、ある明確な理由があったのです。
それでは今回もご一緒に、あのおいしいチーズに想いを馳せながら、ヨーロッパの食をめぐる旅に出かけてみましょう。
* * *
↑ フランドル(現ベルギー)の画家、ピーテル・ブリューゲル(c.1525–1569)が描いた『怠け者の楽園(のらくら王国)』。
「そこには、一山まるごとすりおろしたパルミジャーノ・レッジャーノでできた山があり、その上に暮らす人々のすることといったら、ニョッキとラヴィオリを作るだけ。それをチキンスープで調理して、下の方へところげ落とすんだ。そして、誰もがみんな食べ放題・・・。」 (ボッカッチョ『デカメロン』第8日目第3話)
これは、14世紀半ばのイタリアで書かれた『デカメロン』という小説の中に登場する、ある「楽園」の様子です。
そこにはなんと、ワインでできた河が流れており、ぶどうの木には焼きソーセージがぶら下がっている。
家々の壁はお魚で、屋根の部分はハムでできていて、道では脂ののったガチョウがひとりでに回る焼き串に刺さって、それはもうおいしそうにこんがりと焼けています。
行く先々には真っ白なテーブルクロスのかかった食卓が並び、欲しい物は何でも好きに食べたり飲んだりできる。しかも働くことが禁じられているので、誰もが一年中、のらりくらりと遊んで暮らせる――。
実は、当時のヨーロッパでは、こうしたおいしそうな食べ物であふれかえる「楽園」のイメージが各地で大流行していました。
現実には生活が苦しく、日々の食べ物にも事欠くことが少なくなかっただけに、誰もがこんな楽園を思い描いては、「毎日ゴロゴロしながら、おいしいものをお腹いっぱい食べられたらいいな~!」と憧れていたんですね。
しかし何より驚くのは、なんとここですでに「おいしいものの代名詞」として、あのパルミジャーノ・レッジャーノの名前が挙がっていることなのです。
すりおろしたパルミジャーノ・レッジャーノが、こんもりと山盛りにされてできた山――。
そう、イタリアの人々にとっては、それこそが「楽園のごちそう」に欠かせないイメージだったのでした。
それでは、そんなパルミジャーノ・レッジャーノは、一体いつ頃からこんなにも有名になったのでしょうか?
アルプス山脈の南側、ポー川流域の限られた地域で生産されるパルミジャーノ・レッジャーノの歴史は古く、すでに中世には品質の良いおいしいチーズとして名前が挙げられています。
たとえば、イタリア各地の特産品に大きな関心を寄せていた15世紀の人文主義者プラティーナ(バルトロメオ・サッキ, 1421-1481)は、チーズについて次のように言います。
「(イタリアでは)2種類のチーズが王座を競い合っている。ひとつはトスカーナで三月(マルツォ)に作られるマルツォリーノで、もうひとつはチザルピーナ地方で作られるパルミジャーノである」――。(プラティーナ『真の喜びと健康について』)
ここで言われている「チザルピーナ(Cisalpina)地方」というのが、まさにアルプス山脈の南側、このポー川のあたりことで、もともとはラテン語で「(ローマから見て)アルプスのこちら側」を意味していました。
↑ 白く見えているのがアルプス山脈。その南側、イタリア半島の付け根に広がる緑色の部分が、ポー川沿いに形成されたポー平原(パダーノ平原)。
ポー川の周囲に広がる谷は、もともと湿地帯で排水が悪く、氾濫や洪水が起こることもしばしばでした。ところが、12世紀頃までにはベネディクト会やシトー会といった修道士たちの手によって大規模な灌漑事業が行われ、この土地はイタリア屈指の農業地帯へと生まれ変わったのです。
↑ ポー(Po)川の流れ。多くの支流を持つこの川は周囲の土地を潤し、トリノ、ミラノ、ピアチェンツァ、パルマ、レッジョ・エミリア、モデナ、マントヴァ、ボローニャ、フェッラーラなど、北イタリア諸都市に繁栄をもたらした。
そして同時に、このポー川の灌漑事業は、チーズの世界にも大きな変革をもたらすことになりました。
ここでちょっと、前回のコラム(→クリックで飛べます)の内容を思い出してみましょう。
ヨーロッパのチーズは確か、もともとは少ないエサでも育てることができるヒツジやヤギの乳から作られるものが主流だったのでしたよね?
何しろ体が大きい分、ウシの飼育には大量のエサを必要とします。またチーズ作りに関して言えば、大きなチーズを作ろうとすればするほどに、大量の牛乳が必要となってきます。
ところが、ここへきてポー川流域が耕作可能な土地へと生まれ変わったことで、乳牛のエサとなる牧草や飼料をたくさん育てることができるようになったのです。ここに、乳牛の飼育というチーズ生産にとっての新たな可能性がひらかれたのでした。
↑ ほうれん草のトルテッリ。パルミジャーノ・レッジャーノの主要生産地であるエミリア・ロマーニャ州ではこうした詰め物パスタが名物で、これにもパルミジャーノ・レッジャーノが使われている。
また、こちらも前回の「チーズ」のコラム(→クリックで飛べます)でお話ししたことですが、チーズはキリスト教世界にとっても特別な需要がありました。そう、チーズは宗教上、「肉を食べることを控えねばならない日」に、肉の代わりになるものとして重宝されていたのですね。
さらにイタリアの場合には、「国民食」とも言えるパスタという食品があります。パスタはすでにその原型らしきものが古代ローマの時代から食されている伝統ある食べ物ですし、すでに10世紀頃には味付けと栄養を考えてチーズとセットで食べるという習慣がありました。
そんな風にしてチーズそのものの需要が高まる中、このポー川の流域では乳牛の生産が盛んとなり、やがてはチーズの原料も、それまでの伝統的なヒツジの乳に替わって牛乳が中心となってゆくのです。
↑ トスカーナ地方産、ヒツジの乳のチーズ。
先ほどの人文主義者プラティーナが挙げていた、「イタリアで王座を競い合っている2つのチーズ」。
トスカーナ地方のマルツォリーノと、チザルピーナ地方のパルミジャーノ。
マルツォリーノは、伝統的なヒツジの乳を原料としたチーズ(ペコリーノと総称)の一種です。
一方、われらがパルミジャーノの原料は、牛乳ですね。
ヒツジの乳のチーズから、牛乳のチーズへ――。
プラティーノが生きた15世紀という時代、牛乳は、ようやくチーズの原料としてヒツジの乳と肩を並べ始めます。このような動きは、イタリアチーズの歴史において大きな分岐点となり、以降、チーズの生産はさまざまな形で多様化していきました。
そしてその時、真っ先に牛乳チーズの代表として名前が挙がったのが、まさしくあのパルミジャーノ・レッジャーノだったのです。
* * *
>>> パルミジャーノ・レッジャーノおはなし。(2) へ続く。
※今回の記事は、こちらのNadia内特設ページより画像を数点拝借しています。ありがとうございました。
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